肉体について
この頃運動をしている。
といっても家の近所をジョギング、ウォーキングを週1回やる程度である。運動の強度も、掛けている時間も全然大したことは無い。
ただ、やらないよりはやる方がマシかといった程度で、まずは運動をやることを習慣づけ、そこから段々と強度を上げたトレーニングを行っていければと思っている。
いったいに、僕は運動が苦手だった。足は遅く、パワーは無く、スタミナもなく、柔軟性や器用さも無かった。
例えば小学校の頃なぞは、鬼ごっこをすれば鬼のまま、誰も捕まえることができずに終わりを待つことになっていた。
腹筋運動は一度もできなかったし、器械体操の類はてんでダメであった。
サッカーを10年も続けていたが、引退する日までボールを蹴ればあさっての方向へ飛んでいくという有様だった。
もっとも、サッカーを(イヤイヤながらも、辞めると言い出す根性もなく、惰性で)続けていたおかげで、足の速さとスタミナはどうにか人並みになることができた。
しかしパワーや柔軟性といった点ではからっきしダメのまま、運動自体を辞めてしまった。側転運動や倒立なぞは、ついにできたことが無いまま大人になってしまった。
小学生のころまでは、自分がいま習っているようなことは、大人になれば自然と何でもできるようになっているものだ、と思い込んでいたが、
それは全くの間違いだということを、いま他ならぬ己自身をその証明の根拠として、実感することになっている。
忍耐と反復と工夫と試行錯誤の積み重ね、これでしか、物事はできるようにならない。
そして、これらをやりとげるチャンスというのは、意外なほどに少ない。一輪車と竹馬の練習なぞ、今から小学校の校庭を借りてでも行えと言えるだろうか??
小学生・中学生のうちに積み重ねていることは、必ず財産になる。
というか、それは大人になってからは増やせない、使う一方になる性質の財産なのだから、小中学生の内の努力は買ってでもするべきである。できるようになるまで、あきらめず、周りと比較せず、実直に・・・
今年で24歳になる。テレビの画面の向こうでは、同世代の芸能人やスポーツ選手が活躍し出している。
そこで思うのは、彼らの肉体の美しさである。見た目の美しさというわけではなく、実際にそれが躍動する、機能美の美しさである。
振り返って、ぼくの肉体の方に思いをはせてみる。
肉体の美しさは見た目の美しさでない、といったが、まず僕の肉体は見た目にも美しくない。
ガリガリの鶏ガラのような胸に、だらしなく胃下垂の垂れ下がる腹、枯れ枝のような手足、生白い肌。
機能美の方はもっと最悪で、クッションの役割を果たさない尻の筋肉の薄さ、満員電車の揺れに耐えられぬ足、きしむ腰骨、たわむ脊椎、凝り固まる肩甲骨。階段を登れば息は上がる。・・・
この間なぞ、カバンを持ち上げるだけで胸の筋肉が吊るという事態に見舞われ、これはまずいという危機感が一段と高まることになった。
そう、自分の肉体には、もはや「危機感」を感じるまでになっているのだ。
元々運動はできなかったとはいえ、ここまでひどくは無かった。せっかく小中高と積み重ねてきた体力も筋力も、
大学に入ってからたった数年運動しなかっただけで、もういまのような悲惨な状態になってしまっていたのだ。
スキニージーンズが似合ってしまう太ももなぞ、僕には必要ない。4階の階段であがってしまう肺なぞ、僕には必要ない。
せめて、自分が運動していたころはわずかに得意だった、体力面、スタミナから徐々に取り戻していきたいものである、というのが来年中の目標である。
時短労働について
昨今の情勢を受け、過去の日本が残した負の遺産たる長時間労働が、そして現代的な労働の理想としての時短労働が叫ばれている。
僕の会社でもそれは例外では無く、僕は今日も仕事をやり残したまま、後ろ髪を引かれる思いで退社した。
仕事をやる時間は減り、しかし仕事の総量じたいは変わらない。
そうすると社員は他人の仕事を手伝う暇も無く、皆黙々と、自分に割り当てられた仕事だけを慌ただしくこなしていく。
僕はまだ、仕事を終える前には先輩のダブルチェックが必要だ。しかし、そのチェックをまず頼みづらい。しかも頼んでも中々やってくれず後回しになる。
それも仕方ない。先輩の担当する案件の方がはるかに重要性が高く、関係者にかかってくる責任は重いからだ。
しかし僕が担当している相手の人にとっては、僕の先輩の案件の方があるので納期に遅延するなぞどうでもいいことだ。
僕の相手にだってその先に相手がいて、そのまた先にも相手がいて、僕の仕事の終わりを待ってくれているのだ。だから僕がその人たちの先頭に立って先輩に交渉しなくてはならない。でも中々それができない。
期限の逼迫や、手伝ってくれることの先輩自身にとってのメリット等、伝える内容や伝え方をどうにか工夫しても、やんわりと僕の要求は押し戻されてしまう。もどかしい。
仕事の量、締め切りの短さが変わらなければ時短勤務に意味はない。
ギスギス時短労働よりも、ダラダラ和気藹々長時間労働の方が気持ちが楽だとすら思う。
だが、後者を懐かしむような人は、「生産性が低い」ダメなやつとして扱われることになる。
「生産性」なんて人間じゃない、ロボットを褒めるための言葉だろう、と反論したくもなるのだが、
こうして今の風潮に適応しようともせず、文句ばかり垂れているような「使えない」社員から、
それこそ段々とAIに置き換えられていくのだろう。
ともかく、そういうルールのゲームになってしまったのだ。
早く帰った僕は、早く寝て次の日に備える。
眼を閉じるとまず仕事の光景がフラッシュバックしてくる。体はぐったりと疲れていて重力にまるで逆らえないが、目の周りだけがらんらんと冴えている感じがする。
仕方なく起きたままじっと布団の中で動かずにいても、眠気は一向に訪れず、気がつくと日付がもう変わった頃になっている。
起きる前には仕事の夢を見る。というか、仕事をこなしている。
夢の中では一切の夢らしいエピソードや感覚も現れず、自分はいつもの場所でいつもの仕事を淡々とこなしている。
やがて自分が目の前にしている光景が、実は現実じゃなく夢なんじゃないか、という違和感めいたものが芽生えてくる。
書類を眺めているはずの視界に、自分の実際の肉体の、まぶたが閉じてられている感覚が蘇ってくる。
しばらくし、思い切って眼をかっと開けてみると、目覚ましの鳴るきっかり1時間前である。
しめて、5時間睡眠。
一杯のビールを飲み干した後のようなボンヤリとした頭のまま、能率悪く、のろのろと仕事をし、予定の半分も完遂できないまま疲れてまた帰る。
繰り返し。
繰り返し。
繰り返し。
うさぎと亀の、亀じゃ生き残れない。
体調がすこぶる悪い。
兼ねてからの花粉症による鼻づまりと熱っぽさ、さらにその薬の影響か体全体に怠さがのしかかり、
おまけに最近の仕事のストレスである。
これで体調が良くなるはずがない。
※ ※ ※
社会人生活も、もうかれこれ1年半が過ぎた。
最近、仕事で孤立気味だと感じることが多い。
原因はいくつか考えられる。
ひとつは、前の記事に書いたように自分の性格の問題で、
人に質問したり何か頼んだりすることについて、かなり強い苦手意識を持っているということだ。
もうひとつは部の状況の問題で、
仕事量自体はそこまで無茶な量ではないのだが、
昨今の時短の影響で、皆自分の仕事をさっさと終えることに集中しているようなムードが漂っている。
部署の人が冷たいとか、気が合わないとかそういうことではない。
自力で考えて仕事をしなくてはならない。
同じ部署には20代の人間がおらず、「若手」のカテゴリにいるのは僕1人だけだ。
今この仕事をどこまでの水準でこなせるようになっていればいいか、道標が無い。
ただ、皆2年目を迎える頃にはもう、
今の僕よりもずっと早く仕事を身につけ、ソツなく回せるようになっていたのではないか、という気はする。
僕はかなり物覚えが悪い。
何をするにしても、もはやスタートラインから出遅れているようなことも多かった。
徒競走も折り紙も部活運営も、そして今の仕事も、
幼少期から今に至るまであらゆる局面で、僕はビリケツの人間だった。
皆ができることを、自分1人できずに途方にくれている。
校庭の真ん中で、他の皆がワイワイと楽しそうに縄跳びをしているのを、
何もできずに1人ぽつんと眺めている。
結構昔に体験したそんな光景が、今でもフラッシュバックする。
そうして1人でできないでいるると、
周りの人は初めては皆下手だったから、やってごらんよ、と慰めてくれるのだが、
周りの人はいったいいつ自分より早くそれを身につけたのだろうか、
また、最初の「下手」なやり方にしても、今の僕ほどは下手では無かったのではないか、
と思うことが沢山あった。
課題などを与えられたとき、その時間の中ではできるまで諦めずに、一生懸命やってみるのだが、
やっぱり時間内にはできるようにならず、結局何もできないまま時間が終わってしまう。
そんなことも思い出される。
うさぎと亀の童話といえば皆筋書きはご存知の通りかと思うが、
僕は、うさぎと亀のどちらに近いのかと言われれば、間違いなく亀の方に近い。
その場ではできなくて、一旦は諦めてしまったことも、
諦めたことについての悔しさを感じないわけではない。
失敗からしばらく時が経ち、できなかった悔しさの記憶が薄れてきた頃に、
なんとなくやってみよう、という気が起きて、再びチャレンジしてみる。
一回再チャレンジしたくらいでは、到底人並みの水準までできるようにはならない。
でも、それをさらに何回か、時間を置きながら繰り返すことで、
人の倍以上の時間と工程を経て、やっと人並みにできるようになる。
こうして、僕は一歩ずつ、人から遅れながら、着実に物事をできるようになっていった。
しかし、仕事の世界では常にスピードが求められる。
こんな亀のようにのろのろと、やっと一つ仕事を身につけたところで、
覚えるべき仕事の種類はもっと山ほどの数と種類がある。
亀の着実なスピード感を、誰も待ってはくれないのだ。
仕事の数は沢山ある。それを適時適切にガンガン捌いていくのが求められる能力だ。
人生はよくマラソンに喩えられるが、少なくとも現代の社会人に求められるのは、
亀的なマラソンの持久力ではなく、うさぎ的なシャトルランの瞬発力の方だ。
仕事を早く進めるためには、締め切りを決めて工数を見積もり、
いつ何をやるのかという計画を立ててから取り組むと良い、と云う。
僕にはかなり苦手なやり方だ。
目標を立てて、その通りに上手くいった経験というものが殆ど無いからだ。
たいていのものは企画倒れ、計画遅れ、日常茶飯事になり、
いつしか目標から逆算してタスクを細分化するやり方自体をしなくなっていった。
特に、仕事のプロセスを考える上で、他人に質問するという工程が必ず出てくることに悩んでいる。
人に質問する必要が持ち上がったが途端、頭がフリーズし、工程がストップし、計画通りに仕事が上手く進まなくなる。
今、僕は仕事に必要な、部署の不文のルールと知識とを、経験を通して覚えこんでいる最中なのだが、
いかんせん経験数が少ないため、まだ身につけたことを体系立てることができておらず、
前回はこうしたけど、今回もこうして良いのか、といった判断で、まだ迷いがある。
まだ自信をもって、判断できないことが沢山ある。
だからこそ周りに質問することが重要なのだが、
それが上手くいかず、仕事が思うように進まない、自分が中々成長できない、という苦しみばかりが胸に溜まっていく。
今、これからどうすれば良いのか分からない。
答えは、自分で見つけるしかない。
このままの体たらくでは、
3年目、4年目を迎える頃にまだ仕事を身につけられない僕には愛想を尽かされ、
代わりの人材を採用し、
その人が楽しそうに仕事をどんどん請け負っていくのを横目で見ながら、
僕には簡単な誰にでもできるような仕事ばかりが振られ、
30過ぎた頃には年齢相応のことが何もできず、
40過ぎで放り出され、
もう独立しようにも転職しようにも誰にも相手にされない。
というような、
そういう最悪のシナリオばかりが、脳内でぐるぐるとリピートされている。
仕事で辛くなったときの対処法について(過労自殺をしないために)
昨日今日と、久々にベッドの上でゴロゴロし、ネットサーフィンしつつボーっとするだけという、無為な休日の過ごし方をした。
ようやく暑さが和らいで来たかと思ったら、あっという間に身を切るような冷たい風が吹くというような、急激な気候の変化だ。
「秋」が来ないまま、夏から急に冬に移ったような感じ。
ここ数年、季節の変わり目の度に、精神的・肉体的なしんどさを感じるようになった。
おまけに今は秋の花粉の影響か、鼻詰まりと微熱で脳みその動きが重く、全身がだるい感じだ。
油断していると、すぐに頭の中にネガティブな発想がふいと浮かび、そのままじわじわと脳内を満たしてしまいそうになるし、
体はとてもじゃないが動かせるような気力がわかず、ベッドの中で仰向けになって何時間もじっとしているというありさまだ。
そうすると、ますますネガティブなことを次々と思いつき、結論を出せないままぐるぐると思考の迷路を回りまくり、
ますます気力はグロッキーにな方向へ落ち込んでいき、一歩たりともその場から動きたくなくなってくるという悪循環だ。
※ ※ ※
電通の新入社員の高橋まつりさんが、過労の末自殺したというニュースが飛び込んできて、もう1ヶ月くらいが経つだろうか。
2015年卒といえば僕と同世代だし、広告業界にも何人か友達がいる。
さらに僕自身、広告業界とも近しい業界にいるので、このニュースはちょっとシャレにならないぞ、と思った。
いったい何が彼女を死に追いやってしまったのか?
彼女のプロフィールを見てみると、
母子家庭に育ち、静岡の高校を卒業したあと猛勉強の末東大に合格して単身上京、
大学在学中は週刊朝日のアシスタントとして活躍し、卒業後は電通に入社。そして、日進月歩の勢いで進歩する、インターネット広告を担当する部署に配属される。
はっきり言って、ものすごいバイタリティだ。普通の大学生に比べて、体力も頭脳も段違いだ。
だからこそ、彼女が「たった」105時間の残業が原因で死んでしまうとは思えない。
長時間労働のほかに、何か複合的な要因があるに違いない。
※ ※ ※
ネット上で、彼女を自殺に追いやってしまった要因について、様々な憶測が流れている。
根拠になっているのは、主に彼女が生前行っていたツイッターの内容だ。
例えば、彼女が上司からセクハラやパワハラを受けていたんじゃないか、とか、
自殺の直前には彼氏にフラれていたんじゃないか、とか、そんなことが遺されたツイートの内容から推測されている。
だが、ツイッターから見えてくるのは所詮断片だ。140文字で表現できることは非常に少ないと言わざるを得ない。
彼女と同じ場を共有し、同じようなことを見聞きしていない限り、ツイートから真実に迫るのは難しい。
なので、僕は、あえてここは全くの主観で考えてみたいと思う。
彼女と同じ会社に勤めている訳でないが、可能な限り合理的と思われる推測をしてみる。
彼女はずばり、「相談」ができていたのだろうか。
1年目で、仕事をするためのノウハウも知識も無い。分からないことは先輩に相談するしかないが、先輩が常に忙しそうにしている。
ネット広告の世界は細かい作業が多く、また知識のアップデートも頻繁に行われる。
人手は常に足りないし、ノウハウも体系化されていない。
その場その場の瞬発力、勘勝負になってしまう面もある。
勝負のセオリーが見えない、正解が誰にもわからない。その中で、あの激務である。優秀な彼女には、重要な仕事が「任される」ことも多かっただろう。
しかし、社会人1年目というのは、「組織人」になりきる時期でもある。
聞く限りの話だが、例えば昔のサラリーマンなんかは、2年目・3年目あたりまではコピーとか鉛筆削りとか、誰にでも出来るような雑用から始めることが多かったのではないか。
仕事を早く覚えて発想勝負でガンガン行きたい、というタイプの人間にはもどかしいかもしれないが、しかしそれだけゆっくりと「組織人」として慣れるための時間は合った。
しかし、今の会社に、まだ「慣れ」が必要だ、なんていう「余剰人材」を抱える余裕は無い。超大手の電通でも、多分そうだろう。
そうなると、新入社員は「組織慣れ」と「仕事慣れ」という、異なる2つの大きな能力を同時並行で身につけなくてはならない。
さらに、社会人1年目という立場では、先輩の言うことは絶対だ。
任される仕事は何のためにやることで、どこに力を入れ、どこで手を抜けばいいのかという勘所がまだ分からない。とにかくやれと言われたらやるしかない。
クライアントや社内の人間関係もまだ分からないことが多い。
この人は速いレスポンスが好きだからとにかくスピード重視で、あの人は優しいけどこの業務はやたら細かく見るから丁寧に、といった、
相手の特徴に合わせた1to1の仕事のやり方が、まだ1年目では分からないのではないか。
この人は凄く真剣で整った口ぶりで話すけど、実は忘れっぽくて一貫性が無いから、この人の言うことは話半分に聞いておこう、
というような、「上手な」手抜きができない。
こうした「良い」手抜きは重要だ。
何しろ僕らの世代はこれから40年、いや50年は恐らく働くことになるのだから。全力ダッシュは長く続かない。
しかも、彼女は実家でなく、一人で寮に住んでいたという。
かつての同級生や会社の同期も皆忙しく、会って愚痴を話せる時間も取れない。
言いたいことは言葉にできないまま溜まり、しかし孤独は募るばかりだ。
加えて、冬の寒さだ。
これはバカにできない。
日照時間が少なく、どんよりとした天気が続く。寒いと外にも出たくなくなり、開放的な気分にはとてもじゃないがなれない。
冬になるとリスクが高くなるのは、季節性うつというやつだ。
仕事では叱られ、何をすればいいかわからず、暗夜行路に迷い込んだようになり、それを孤独に持ち帰り、抱え続ける。
死ぬくらいなら仕事を辞めよう、ということを冷静に考える余裕は、既に残っていなかったはずだ。
※ ※ ※
自分が仕事で落ち込んだ時に実践している思考法が、
「自分をギャグ漫画の主人公だと思うこと」である。
こち亀とかバカボンとか、そういう漫画の主人公が現実にいたらどうだろうか?
きっと、周囲のまともな人間からすれば、どうしようもないダメ人間として扱われると思うのだ。
人の言うことは通じなかったり、屁理屈をこねては上げ足ばかり取ってみたり、責任は逃れようとズルをする、楽して儲けようと悪事をたくらむ、やりたい放題やって人を振り回しつつ、最後に痛いしっぺ返しを食らってオチになる。
しかも、最終的には一話完結の「ギャグ漫画時空」なので、次の話の時には周囲の状況は全て元通りになるのだ。
「ギャグ漫画時空」なんて言ったが、実は現実世界も案外そんなものでは無いか。
自分ひとりミスったところで、しばらく時間が経ったり、場面が変わったりすれば全て元通り―――
自分ひとりダメで、足ばかり引っ張っても、そのせいで人が死んだり国が亡んだりするわけではない。(国が亡んだらそれこそ不条理ギャグだ)
また、仕事を嫌になって辞めたりクビになってしまったとしても、餓えて野垂れ死ぬような国ではない。(野垂れ死にそうになっている主人公が悪知恵を思いついて・・・なんて、ギャグ漫画にありそうな展開ではないか?)
のうのうと生き続けていていいのだ。
自分はダメだ、一人だ、と思ったら、そういう自分の置かれた状況を自分を客観視して、戯画化して、楽しんでみる余裕が必要だ。
※ ※ ※
今回の記事は、特に視野狭窄に陥りがちで、ちょっとしたことですぐに海の底まで凹みまくる自分への戒めとして、真剣に考えてみた。
最近、あまりにも自分と同世代の人間が死んだり殺したりするニュースが多く、辛くなってきた・・・
人に話しかけられるのは良いが、人に話しかけるのは苦手。
人から話しかけられるときはすらすら言葉が出てくるが、
自分が人に話しかけるのはまったくダメで、
人に話しかけようと思う度に、自分は清水の舞台から飛び降りるような思いをしなくてはならない。
特にこの不安が噴出するのは、仕事で質問することが必要なときだ。
どうしても先輩や上長に話しかけ、質問しようとしても、いつも尻込みしてしまう。
質問しなくては、自分の抱えている仕事が前に進まないことを分かっているのにだ。
原因はなんだろうか。
まず、中々話しかけようとすること、すなわち質問したいことがまとまらず、言葉にできないというのが挙げられる。
そもそも、分からないことが分からない、という状態に陥ってしまう。
さらに、いま自分が抱えている問題を、図で示すなり言葉に起こすなりして整理し、分からない点を特定したりもするのだが、
いざそれを言葉で説明する段になって、途端に臆病風が吹き、
話すときには言葉が尻切れとんぼのようにフラフラと展開し、
論理が曖昧な、問題の核心を突かず周縁をなぞるだけの、
よく分からない報告事項として表出させ、相手を困らせてしまう。
とにかく口で話すこと自体に自信がない。
口で話すことの前段階にあたる、論点整理にしても、これだと確信できるだけの成果を出せる自信はまったくない。
自分では問題の論点を、完全に網羅して整理したつもりでも、
抽出した論点が的外れだったり、問題に対する理解が浅く、洗い出すべき項目が全然揃っていなかったりするのだ。
自分が学生の頃、物凄く数学が苦手で、
いつもテスト用紙の前で思考がフリーズし、何もできないままベルが鳴るのを待っていたことを思い出す。
学生の頃は、思考能力の低さを記憶力でカバーすることで、
5教科トータルで見たときのテストの成績をマシな感じに誤魔化すことができていたが、
それも年貢の納め時だろうか。
他人に自分から話しかけられないというのは、仕事の上で大変に困ることだし、
また他人を困らせることだ。
自分の責任を果たすためには、これくらい我慢して質問しなくちゃいけない、
分かってはいるのに、怖くて躊躇ってしまい、結局できない。
責任を放棄して嫌なことから逃げてるだけ、楽な方へ流されているだけ、と批判されても仕方ないとは思う、甘んじて受け入れるしかないとも思う。
しかし、いったいそういう指摘をする人の中に、ワニの口の中に平気で腕を突っ込める人がどれくらいいるのだろうか?
これまで何度となく、質問しなくてはいけない状況を切り抜いてきたが、
清水の舞台から飛び降りる恐怖感には、疲れが溜まるばかりで、一向に慣れない。
自分が相談しやすいように、むしろ周りの人が自分に積極的に話しかけてくれれば良いのに、
なんて、考えてるうちに他人のせいにしたくなる。
いつの間にか自然と、他人のせいにしたくなっている自分が、情けなく、恥ずかしい。
仕事は人生の3割、という言葉を聞いたことがある。
3割に過ぎないことだからこそ、悩み過ぎず、思い切って好きにやれという、とても良い言葉だ。
しかし、自分がいま悩んでいることとは、
実のところ3割の仕事のことではなく、
人生の10割を占める、日常のあらゆるシーンでずっと悩んできた、コミュニケーションの問題なのだ。
自分はコミュニケーション能力が無いと、昔からよく叱られてきた。
実際に表現される言葉の裏には、無数の表現されない言葉の意味連関があって、
この意味連関と合わさって、初めて言葉によるコミュニケーションが成立する。
ところが自分の場合、どうやらその言葉の意味連関を、他人と共有できていないようなのだ。
しかも、かつてはそれを共有しようとすら思っていなかった。
空気を読む、ということを、15歳になるまで知らなかった。
周囲の言う「空気」よりも、自分が教えられてきた「正しい」ことの方が、
常に正解であって、優先されるべきなのだと、本気でそう思っていた。
でも、それで色々なことが上手くいかなくなり、自分はそこで初めて、
他人の言葉を理解するための努力をすることにした。
他人の持つ、言葉の意味連関を理解するために、
自分は他人と同じような行動をし、同じ事柄を体験し、同じタイミングで笑うというようなことを、毎日毎日やり続けた。
これを続ける中で、集団でいるときの「空気」を感じ取ることのほかに、
同じ言葉でもこの人はこう、あの人はああやって捉えるだろうな、というような、
個別の人柄を考察するときについての勘所も、少しづつ身についていった。
しかし、それは、他人の意味連関の獲得ということと同時に、今までの自分の築き上げてきた意味連関を否定し、破壊することだった。
こうした「努力」の甲斐あってか、今では他人に話しかけられたときに、適切な言葉を選んで打ち返すことで、
「普通の人と普通の会話を成立させる」ことが、ある程度まではできるようになった。
しかし、自分が他人に話しかける時は、中々そうはいかない。
相手の打ち返し方によっては、ゴロゴロと石が崖を転がるように、話の筋道が自分の想定していたところからどんどん外れていくこともある。
そうなればもうパニックだ。どうして良いか分からなくなる。
自分が話した言葉を相手がどう捉えるか、何と答えてくるか、といった部分で、まだ自分の想像力が追い付いていない。
これからもずっと自分の意味連関を破壊し続ける必要があるのだろうか。
質問できなかったことで、明日に残してしまった仕事のことを思い、すごく申し訳なく、憂鬱な気分だ。
不文のルールが苦手
大した仕事もせず、ボーッとして過ごしたような1日なのに、ひどく疲れてしまった。
まさかこれが、運動不足の解消のためにと、少し離れた駅から20分ほど歩いて会社に出勤したことが原因というわけではあるまい。
いったいに僕は、不文のルールというものが苦手だ。
いま僕の働いている部署に業務マニュアルは無い。
しかし自分流の答えを自分で考え出して仕事をすれば良いわけでは勿論なく、
部署としての正しい答えを出すために、不文のルールを探りながら仕事を進める必要がある。
これが、僕が学生時代よく経験したように、自分1人の部署というものに配属され、まったく自分の裁量と方法で答えを出せたらどんなに楽なことか。
まったくノウハウの蓄積もない、新しい部署に1人で配属され、切込隊長的な役割を果たすのは、
周囲からは大変だねと気遣われつつも、実は僕にとってはそっちの方が気楽だったりする。
もし結果が出ずに叱られたり失望されたりしても、僕のせいでほかの誰かが叱られたり責任を負わされたりすることはなく、僕1人で全ての責任を負えば良い。
しかも、いざ責任を問われることになった場合でも、僕は無責任な性格なので、人のお叱りに対して外面だけは何とも申し訳なさそうな感じを見せつつ、内面ではうんともすんとも思わずに、のらりくらりと身を交わすことも、比較的得意であったりする。
かりにルールが不文であっても、ある一定の問題にたいして、ある程度一貫性がある答えが出せそうだと思えるなら、安心して取り組める。
しかし現実はそうもいかない。あるAという問題に対してBという答えを出そうとしていて、
似たような問題A'に対して常にB'の答えを用意できるだろうか?
シチュエーションによってはジャンル:Aの問題について常にジャンル:Bの答えを出すのが適当とは限らないんじゃ無いか、と予測できる、なんて場合もある。
そういう場合が予測できるときでも「今回はまあBにしましょうか」と言って良いのか?
自分としては一貫性のある、Cという答えも用意できてるのだが、それを提案しても先輩や上長に交わされるような格好で、腑に落ちないままBという答えを出すことになってしまう。
自分の中の一貫性の判断について、他人には納得してもらえないということなのか、
他人の言うことが自分の頭の中の文脈に上手くはまっていっていないからだろうか、
結局のところその両方が当てはまりそうな感はある。
僕は昔から母親に、お前は臨機応変さが無いと叱られ続けた。
僕の祖父も父も、そして母も相当な頑固者で、しばしばお互いの主張を頑として容れず、家庭は常日頃から怒鳴り合いのがなり合いに満たされていた。
僕には柔軟性が無いのだろうか、いつも時間が経って、冷静に振り返って、あれについてはそこまでこだわる必要はなかったな、と反省することはままある。
仕事は人生の3割と言う。それは正しいと思う。
でも自分がいま直面しているのは、その3割の問題というよりは、自分の人生全体を通じて持ち続けて来た、すなわち自分の思考それ自体の問題なのである。
だから結局これは仕事の疲れ、と定義するのも妥当でなく、仕事がトリガーとなって引き起こされた己自身の問題から、精神的に疲れてしまっているということなのである。
事実、無茶な仕事を振られて毎日朝帰り、なんてことになっているわけではなく、
むしろ先輩や上長は優しく、しかも早く帰ることのできる良い職場なのである。
ほかの皆に申し訳ない、と自罰的に落ち込んでしまうわけではなく、周りの皆のせいだと他罰的になるわけでもないが、とかく自分の考えを見直しさねばならぬ。
肩の力を抜いて、3割の仕事を含めた人生の全体を、もっと気楽に歩んでいきたいと思うのである。
文章について
文章は難しい。
僕は文章を書くのが苦手だ。
このブログを書きはじめたのも文章の練習のためだ。毎週土曜か日曜を使って書こうと決めていたのに、つい億劫になって先週の更新をさぼってしまった。
なぜ、僕は文章が苦手なのだろうか。
そもそも、文章が苦手とはどういうことか。
「文章」を書くということは、大まかに2つのフェーズを経る作業だと考えている。
①思考を言葉の形に起こす
②言葉を文章の形にまとめる
文章が苦手ということは、このプロセスのうちいずれか、或いは両方が苦手であるということだろう。
順を追って考えていきたい。
①②それぞれについて考えていく前提として、まず「文章」とは何か、軽く考えをまとめておきたいと思う。
文章というのは、人間の脳みその中にあるものをいかに外部に表出するかという、ひとつのアウトプットの形である。
(前提のまた前提として、文章の前には思考がある。思考のひとつの外部への表出形式として、文章がある。)
そして、アウトプットの前には、必ずその材料となるインプットがある。人間は1から2を生むことはできても、0から1は生めないのである。
となると、人間が文章をアウトプットするためには、文章の材料にふさわしいインプットが必要なはずということになる。これを念頭に置いたうえで、さらに考えを前に進めていきたいと思う。
①の「思考を言葉の形に起こす」ことが苦手ということは
・そもそも自分の思考が言葉で浮かんでこない
ということだろうか。
思考が言葉で浮かんでくる場合と、言葉で浮かんでこない場合を考えてみよう。
何か考えようとするときに、頭の中に絵や音やイメージのような、言葉以外の形態でぱっと何か思いつく、ということはままある。旅の思い出とか、今食べたいものを思い出すときとかはこの形が多い。要するに、言葉以前に、感覚でまず感じ取るような事柄だ。
これに対し、最初から言葉で浮かんでくる思考もある。昨日読んだ小説のあらすじとか、明日の仕事の予定とかがそうだ。最初から抽象的で、感覚的ではない、思考や言葉それ自体をベースに組み立てられている事柄だ。
もちろん、感覚で感じ取る事柄も、思いつくときには文章で思いつくことはあるし、(おいしそうなプリンの写真に、ぴったりなキャプションが添えてあった時などは、まずその簡潔で魅惑的なキャプションのことばの表現を思い出し、それからプリンの色合い、舌触りを思い出すこともあるだろう)
逆に最初言葉や思考で組み立てられているものでも、まず感覚で思い出すということもある(明日の予定を練っているとき、納期が遅れて怒らせてしまった担当者の表情がまず思い浮かぶなど)
感覚で思い浮かんだことも、ブログに書いたり人に話したりするときには言葉の形に変換しなければならない。
言葉で浮かんでくる思考に対して、感覚で浮かんでくる思考の方が、言葉でアウトプットするという点ではこの変換のプロセスが要るという点で難易度が高そうだ。
つまり、言葉以外で思考が浮かぶことが多ければ多いほど、それを言葉でアウトプットすることに難儀しやすいということだ。
また、言葉以外の思考を言葉に変換しようとして、適切な語彙が自分の頭の中になければ、やはり表現に手惑うことになろう。
②の、「言葉を文章の形にまとめる」とは、そもそもどういうことか。
思考が言葉で浮かぶ、あるいは思考を言葉に変換した場合でも、それは文章の形にはなっていないことが多い。
文章とは言葉それ自体ではなく、言葉を文法というルールの下に繋ぎ合わせて形作られたものである。
では、その文法はどうやって覚えていくのか?
日本語の文法に関する参考書は巷にあふれているが、そういった参考書を読まないうちから、言葉を文章にして表現すること自体はできるはずである。
となれば、そうでない方法によってインプットしているはずである。
文章で自分の思考を表現できるようになるのは、幼稚園から小学生くらいの間であろう。それまでの時期に触れられる、言葉に関するインプット源といえば、会話や本だろう。
すなわち、文法がどうやって身に付くのかというと、最初から文法についてのまとまった知識を手に入れるのでなく、会話や本で日本語に触れる経験を重ね、自らまとめていくのである。
文章が苦手、ということが文法が苦手、ということを指すのであれば、このインプットの質が悪かったか、量が少なかったかということなのだろう。
ここまでぐちゃぐちゃと自分の脳みその中身をさらけ出してみた。
続きがまだあるので、次回以降追記していきたい。