不文のルールが苦手
大した仕事もせず、ボーッとして過ごしたような1日なのに、ひどく疲れてしまった。
まさかこれが、運動不足の解消のためにと、少し離れた駅から20分ほど歩いて会社に出勤したことが原因というわけではあるまい。
いったいに僕は、不文のルールというものが苦手だ。
いま僕の働いている部署に業務マニュアルは無い。
しかし自分流の答えを自分で考え出して仕事をすれば良いわけでは勿論なく、
部署としての正しい答えを出すために、不文のルールを探りながら仕事を進める必要がある。
これが、僕が学生時代よく経験したように、自分1人の部署というものに配属され、まったく自分の裁量と方法で答えを出せたらどんなに楽なことか。
まったくノウハウの蓄積もない、新しい部署に1人で配属され、切込隊長的な役割を果たすのは、
周囲からは大変だねと気遣われつつも、実は僕にとってはそっちの方が気楽だったりする。
もし結果が出ずに叱られたり失望されたりしても、僕のせいでほかの誰かが叱られたり責任を負わされたりすることはなく、僕1人で全ての責任を負えば良い。
しかも、いざ責任を問われることになった場合でも、僕は無責任な性格なので、人のお叱りに対して外面だけは何とも申し訳なさそうな感じを見せつつ、内面ではうんともすんとも思わずに、のらりくらりと身を交わすことも、比較的得意であったりする。
かりにルールが不文であっても、ある一定の問題にたいして、ある程度一貫性がある答えが出せそうだと思えるなら、安心して取り組める。
しかし現実はそうもいかない。あるAという問題に対してBという答えを出そうとしていて、
似たような問題A'に対して常にB'の答えを用意できるだろうか?
シチュエーションによってはジャンル:Aの問題について常にジャンル:Bの答えを出すのが適当とは限らないんじゃ無いか、と予測できる、なんて場合もある。
そういう場合が予測できるときでも「今回はまあBにしましょうか」と言って良いのか?
自分としては一貫性のある、Cという答えも用意できてるのだが、それを提案しても先輩や上長に交わされるような格好で、腑に落ちないままBという答えを出すことになってしまう。
自分の中の一貫性の判断について、他人には納得してもらえないということなのか、
他人の言うことが自分の頭の中の文脈に上手くはまっていっていないからだろうか、
結局のところその両方が当てはまりそうな感はある。
僕は昔から母親に、お前は臨機応変さが無いと叱られ続けた。
僕の祖父も父も、そして母も相当な頑固者で、しばしばお互いの主張を頑として容れず、家庭は常日頃から怒鳴り合いのがなり合いに満たされていた。
僕には柔軟性が無いのだろうか、いつも時間が経って、冷静に振り返って、あれについてはそこまでこだわる必要はなかったな、と反省することはままある。
仕事は人生の3割と言う。それは正しいと思う。
でも自分がいま直面しているのは、その3割の問題というよりは、自分の人生全体を通じて持ち続けて来た、すなわち自分の思考それ自体の問題なのである。
だから結局これは仕事の疲れ、と定義するのも妥当でなく、仕事がトリガーとなって引き起こされた己自身の問題から、精神的に疲れてしまっているということなのである。
事実、無茶な仕事を振られて毎日朝帰り、なんてことになっているわけではなく、
むしろ先輩や上長は優しく、しかも早く帰ることのできる良い職場なのである。
ほかの皆に申し訳ない、と自罰的に落ち込んでしまうわけではなく、周りの皆のせいだと他罰的になるわけでもないが、とかく自分の考えを見直しさねばならぬ。
肩の力を抜いて、3割の仕事を含めた人生の全体を、もっと気楽に歩んでいきたいと思うのである。