人生ちょいハードモード

人生ハードモードというにはおこがましいが、ほどほどにハードな人生をどうにかこうにかやり過ごしたい

人に話しかけられるのは良いが、人に話しかけるのは苦手。

人から話しかけられるときはすらすら言葉が出てくるが、

自分が人に話しかけるのはまったくダメで、

人に話しかけようと思う度に、自分は清水の舞台から飛び降りるような思いをしなくてはならない。

 

特にこの不安が噴出するのは、仕事で質問することが必要なときだ。

どうしても先輩や上長に話しかけ、質問しようとしても、いつも尻込みしてしまう。

質問しなくては、自分の抱えている仕事が前に進まないことを分かっているのにだ。

 

原因はなんだろうか。

まず、中々話しかけようとすること、すなわち質問したいことがまとまらず、言葉にできないというのが挙げられる。

そもそも、分からないことが分からない、という状態に陥ってしまう。

 

さらに、いま自分が抱えている問題を、図で示すなり言葉に起こすなりして整理し、分からない点を特定したりもするのだが、

いざそれを言葉で説明する段になって、途端に臆病風が吹き、

話すときには言葉が尻切れとんぼのようにフラフラと展開し、

論理が曖昧な、問題の核心を突かず周縁をなぞるだけの、

よく分からない報告事項として表出させ、相手を困らせてしまう。

とにかく口で話すこと自体に自信がない。

 

口で話すことの前段階にあたる、論点整理にしても、これだと確信できるだけの成果を出せる自信はまったくない。

自分では問題の論点を、完全に網羅して整理したつもりでも、

抽出した論点が的外れだったり、問題に対する理解が浅く、洗い出すべき項目が全然揃っていなかったりするのだ。

自分が学生の頃、物凄く数学が苦手で、

いつもテスト用紙の前で思考がフリーズし、何もできないままベルが鳴るのを待っていたことを思い出す。

学生の頃は、思考能力の低さを記憶力でカバーすることで、

5教科トータルで見たときのテストの成績をマシな感じに誤魔化すことができていたが、

それも年貢の納め時だろうか。

 

他人に自分から話しかけられないというのは、仕事の上で大変に困ることだし、

また他人を困らせることだ。

自分の責任を果たすためには、これくらい我慢して質問しなくちゃいけない、

分かってはいるのに、怖くて躊躇ってしまい、結局できない。

責任を放棄して嫌なことから逃げてるだけ、楽な方へ流されているだけ、と批判されても仕方ないとは思う、甘んじて受け入れるしかないとも思う。

しかし、いったいそういう指摘をする人の中に、ワニの口の中に平気で腕を突っ込める人がどれくらいいるのだろうか?

これまで何度となく、質問しなくてはいけない状況を切り抜いてきたが、

清水の舞台から飛び降りる恐怖感には、疲れが溜まるばかりで、一向に慣れない。

 

自分が相談しやすいように、むしろ周りの人が自分に積極的に話しかけてくれれば良いのに、

なんて、考えてるうちに他人のせいにしたくなる。

いつの間にか自然と、他人のせいにしたくなっている自分が、情けなく、恥ずかしい。

 

仕事は人生の3割、という言葉を聞いたことがある。

3割に過ぎないことだからこそ、悩み過ぎず、思い切って好きにやれという、とても良い言葉だ。

しかし、自分がいま悩んでいることとは、

実のところ3割の仕事のことではなく、

人生の10割を占める、日常のあらゆるシーンでずっと悩んできた、コミュニケーションの問題なのだ。

 

自分はコミュニケーション能力が無いと、昔からよく叱られてきた。

実際に表現される言葉の裏には、無数の表現されない言葉の意味連関があって、

この意味連関と合わさって、初めて言葉によるコミュニケーションが成立する。

ところが自分の場合、どうやらその言葉の意味連関を、他人と共有できていないようなのだ。

 

しかも、かつてはそれを共有しようとすら思っていなかった。

空気を読む、ということを、15歳になるまで知らなかった。

周囲の言う「空気」よりも、自分が教えられてきた「正しい」ことの方が、

常に正解であって、優先されるべきなのだと、本気でそう思っていた。

でも、それで色々なことが上手くいかなくなり、自分はそこで初めて、

他人の言葉を理解するための努力をすることにした。

他人の持つ、言葉の意味連関を理解するために、

自分は他人と同じような行動をし、同じ事柄を体験し、同じタイミングで笑うというようなことを、毎日毎日やり続けた。

これを続ける中で、集団でいるときの「空気」を感じ取ることのほかに、

同じ言葉でもこの人はこう、あの人はああやって捉えるだろうな、というような、

個別の人柄を考察するときについての勘所も、少しづつ身についていった。

しかし、それは、他人の意味連関の獲得ということと同時に、今までの自分の築き上げてきた意味連関を否定し、破壊することだった。

 

こうした「努力」の甲斐あってか、今では他人に話しかけられたときに、適切な言葉を選んで打ち返すことで、

「普通の人と普通の会話を成立させる」ことが、ある程度まではできるようになった。

しかし、自分が他人に話しかける時は、中々そうはいかない。

相手の打ち返し方によっては、ゴロゴロと石が崖を転がるように、話の筋道が自分の想定していたところからどんどん外れていくこともある。

そうなればもうパニックだ。どうして良いか分からなくなる。

自分が話した言葉を相手がどう捉えるか、何と答えてくるか、といった部分で、まだ自分の想像力が追い付いていない。

これからもずっと自分の意味連関を破壊し続ける必要があるのだろうか。

 

質問できなかったことで、明日に残してしまった仕事のことを思い、すごく申し訳なく、憂鬱な気分だ。