人生ちょいハードモード

人生ハードモードというにはおこがましいが、ほどほどにハードな人生をどうにかこうにかやり過ごしたい

時短労働について

昨今の情勢を受け、過去の日本が残した負の遺産たる長時間労働が、そして現代的な労働の理想としての時短労働が叫ばれている。

僕の会社でもそれは例外では無く、僕は今日も仕事をやり残したまま、後ろ髪を引かれる思いで退社した。

 

仕事をやる時間は減り、しかし仕事の総量じたいは変わらない。

そうすると社員は他人の仕事を手伝う暇も無く、皆黙々と、自分に割り当てられた仕事だけを慌ただしくこなしていく。

 

僕はまだ、仕事を終える前には先輩のダブルチェックが必要だ。しかし、そのチェックをまず頼みづらい。しかも頼んでも中々やってくれず後回しになる。

それも仕方ない。先輩の担当する案件の方がはるかに重要性が高く、関係者にかかってくる責任は重いからだ。

しかし僕が担当している相手の人にとっては、僕の先輩の案件の方があるので納期に遅延するなぞどうでもいいことだ。

僕の相手にだってその先に相手がいて、そのまた先にも相手がいて、僕の仕事の終わりを待ってくれているのだ。だから僕がその人たちの先頭に立って先輩に交渉しなくてはならない。でも中々それができない。

期限の逼迫や、手伝ってくれることの先輩自身にとってのメリット等、伝える内容や伝え方をどうにか工夫しても、やんわりと僕の要求は押し戻されてしまう。もどかしい。

 

仕事の量、締め切りの短さが変わらなければ時短勤務に意味はない。

ギスギス時短労働よりも、ダラダラ和気藹々長時間労働の方が気持ちが楽だとすら思う。

だが、後者を懐かしむような人は、「生産性が低い」ダメなやつとして扱われることになる。

「生産性」なんて人間じゃない、ロボットを褒めるための言葉だろう、と反論したくもなるのだが、

こうして今の風潮に適応しようともせず、文句ばかり垂れているような「使えない」社員から、

それこそ段々とAIに置き換えられていくのだろう。

 

ともかく、そういうルールのゲームになってしまったのだ。

 

早く帰った僕は、早く寝て次の日に備える。

眼を閉じるとまず仕事の光景がフラッシュバックしてくる。体はぐったりと疲れていて重力にまるで逆らえないが、目の周りだけがらんらんと冴えている感じがする。

仕方なく起きたままじっと布団の中で動かずにいても、眠気は一向に訪れず、気がつくと日付がもう変わった頃になっている。

 

起きる前には仕事の夢を見る。というか、仕事をこなしている。

夢の中では一切の夢らしいエピソードや感覚も現れず、自分はいつもの場所でいつもの仕事を淡々とこなしている。

やがて自分が目の前にしている光景が、実は現実じゃなく夢なんじゃないか、という違和感めいたものが芽生えてくる。

書類を眺めているはずの視界に、自分の実際の肉体の、まぶたが閉じてられている感覚が蘇ってくる。

しばらくし、思い切って眼をかっと開けてみると、目覚ましの鳴るきっかり1時間前である。

しめて、5時間睡眠。

 

一杯のビールを飲み干した後のようなボンヤリとした頭のまま、能率悪く、のろのろと仕事をし、予定の半分も完遂できないまま疲れてまた帰る。

繰り返し。

繰り返し。

繰り返し。