人生ちょいハードモード

人生ハードモードというにはおこがましいが、ほどほどにハードな人生をどうにかこうにかやり過ごしたい

文章について

文章は難しい。

僕は文章を書くのが苦手だ。

このブログを書きはじめたのも文章の練習のためだ。毎週土曜か日曜を使って書こうと決めていたのに、つい億劫になって先週の更新をさぼってしまった。

なぜ、僕は文章が苦手なのだろうか。

そもそも、文章が苦手とはどういうことか。

「文章」を書くということは、大まかに2つのフェーズを経る作業だと考えている。

①思考を言葉の形に起こす

②言葉を文章の形にまとめる

文章が苦手ということは、このプロセスのうちいずれか、或いは両方が苦手であるということだろう。

順を追って考えていきたい。

 

①②それぞれについて考えていく前提として、まず「文章」とは何か、軽く考えをまとめておきたいと思う。

文章というのは、人間の脳みその中にあるものをいかに外部に表出するかという、ひとつのアウトプットの形である。

(前提のまた前提として、文章の前には思考がある。思考のひとつの外部への表出形式として、文章がある。)

そして、アウトプットの前には、必ずその材料となるインプットがある。人間は1から2を生むことはできても、0から1は生めないのである。

となると、人間が文章をアウトプットするためには、文章の材料にふさわしいインプットが必要なはずということになる。これを念頭に置いたうえで、さらに考えを前に進めていきたいと思う。

 

①の「思考を言葉の形に起こす」ことが苦手ということは

・そもそも自分の思考が言葉で浮かんでこない

ということだろうか。

思考が言葉で浮かんでくる場合と、言葉で浮かんでこない場合を考えてみよう。

何か考えようとするときに、頭の中に絵や音やイメージのような、言葉以外の形態でぱっと何か思いつく、ということはままある。旅の思い出とか、今食べたいものを思い出すときとかはこの形が多い。要するに、言葉以前に、感覚でまず感じ取るような事柄だ。

これに対し、最初から言葉で浮かんでくる思考もある。昨日読んだ小説のあらすじとか、明日の仕事の予定とかがそうだ。最初から抽象的で、感覚的ではない、思考や言葉それ自体をベースに組み立てられている事柄だ。

もちろん、感覚で感じ取る事柄も、思いつくときには文章で思いつくことはあるし、(おいしそうなプリンの写真に、ぴったりなキャプションが添えてあった時などは、まずその簡潔で魅惑的なキャプションのことばの表現を思い出し、それからプリンの色合い、舌触りを思い出すこともあるだろう)

逆に最初言葉や思考で組み立てられているものでも、まず感覚で思い出すということもある(明日の予定を練っているとき、納期が遅れて怒らせてしまった担当者の表情がまず思い浮かぶなど)

感覚で思い浮かんだことも、ブログに書いたり人に話したりするときには言葉の形に変換しなければならない。

言葉で浮かんでくる思考に対して、感覚で浮かんでくる思考の方が、言葉でアウトプットするという点ではこの変換のプロセスが要るという点で難易度が高そうだ。

つまり、言葉以外で思考が浮かぶことが多ければ多いほど、それを言葉でアウトプットすることに難儀しやすいということだ。

また、言葉以外の思考を言葉に変換しようとして、適切な語彙が自分の頭の中になければ、やはり表現に手惑うことになろう。

 

②の、「言葉を文章の形にまとめる」とは、そもそもどういうことか。

思考が言葉で浮かぶ、あるいは思考を言葉に変換した場合でも、それは文章の形にはなっていないことが多い。

文章とは言葉それ自体ではなく、言葉を文法というルールの下に繋ぎ合わせて形作られたものである。

では、その文法はどうやって覚えていくのか?

日本語の文法に関する参考書は巷にあふれているが、そういった参考書を読まないうちから、言葉を文章にして表現すること自体はできるはずである。

となれば、そうでない方法によってインプットしているはずである。

文章で自分の思考を表現できるようになるのは、幼稚園から小学生くらいの間であろう。それまでの時期に触れられる、言葉に関するインプット源といえば、会話や本だろう。

すなわち、文法がどうやって身に付くのかというと、最初から文法についてのまとまった知識を手に入れるのでなく、会話や本で日本語に触れる経験を重ね、自らまとめていくのである。

文章が苦手、ということが文法が苦手、ということを指すのであれば、このインプットの質が悪かったか、量が少なかったかということなのだろう。

 

 

 

 ここまでぐちゃぐちゃと自分の脳みその中身をさらけ出してみた。

続きがまだあるので、次回以降追記していきたい。